『一握の砂』の序文を書いた“渋川玄耳”のふるさとを訪ねて
玄耳の祖先は、佐賀県武雄市山内町宮野の窯焼きだった。
この写真の場所は、黒髪神社を左に見て県道26号を伊万里方面に進む。約1.5km行ったところの左に「黒髪の森温泉」という大きな看板がある。そこを左へ曲がるとすぐに二股に分かれる。右の道をとり、200メートルほど行った所。
右側にある緑色の畑のふち(白線のすぐ右)に黒い棒と白い棒が立っている。それが、渋川玄耳の墓碑案内看板と説明板である。
墓碑案内板と説明板。
渋川 玄耳(しぶかわ げんじ 本名柳次郎 ペンネーム 薮野椋十《やぶのむくじゅう》)
- 1872年(明治5)〜1926年(大正15)。
- 佐賀県武雄市西川登町小田志出身。
- 日露戦争で満州に出征し、東京朝日新聞に『従軍三年』というルポを寄稿する。
- 1907年(明治40年)東京朝日新聞へ入社。
説明板。
- 東京朝日新聞社の社会部長で、当時無名だった石川啄木を登用して朝日歌壇を復活させた。
- 啄木の歌集「一握の砂」の序文を書いた。
- 生前からの強い希望で、幼少期を過ごした山内町宮野の黒髪山の見える丘に眠っている。
- 筒江の馬場家に玄耳自筆の書画がある
秋の日は女(め)いはのかげにうすれつつたそがれ寒き黒髪のやま
風たえし一夜はあけて朝戸出(あさとで)の黒髪山に雪ぞ積(つも)れる
黒髪山乳待坊会
道脇に立つ1枚目の案内板。
二枚目の案内板から右に折れる。少し登ったところに小さく三枚目の案内板が見える。
三枚目の案内板。
佐賀新聞(2014年05月28日)の記事によれば、「地元のボランティア団体「黒髪山乳待坊会」の会員8人が、歴史探訪者のために説明板1枚と墓地までの案内板4枚を設置した」とのこと。
一枚目と三枚目の位置関係はこのようになっている。
中央手前が一枚目の案内板。左すみに三枚目の案内板が写っている。
そこから、写真中央の緑の坂道を登っていく。登りきったところが渋川家の墓所。
(つづく)
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