〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

“渋川玄耳”のふるさと佐賀県を訪ねて <その1>

啄木文学散歩・もくじ


『一握の砂』の序文を書いた“渋川玄耳”のふるさとを訪ねて

  • 渋川玄耳といえば、朝日歌壇の選者に当時無名24歳の石川啄木を起用した人。
  • 啄木の歌集『一握の砂』は玄耳の勧めにより始まり、刊行のときには玄耳が序文を書いた。


玄耳の祖先は、佐賀県武雄市山内町宮野の窯焼きだった。
この写真の場所は、黒髪神社を左に見て県道26号を伊万里方面に進む。約1.5km行ったところの左に「黒髪の森温泉」という大きな看板がある。そこを左へ曲がるとすぐに二股に分かれる。右の道をとり、200メートルほど行った所。
右側にある緑色の畑のふち(白線のすぐ右)に黒い棒と白い棒が立っている。それが、渋川玄耳の墓碑案内看板と説明板である。






墓碑案内板と説明板。


渋川 玄耳(しぶかわ げんじ 本名柳次郎 ペンネーム 薮野椋十《やぶのむくじゅう》)





説明板。

  • 明治期に活躍したジャーナリスト、随筆家、黒髪山を愛した文人記者
  • 東京朝日新聞社の社会部長で、当時無名だった石川啄木を登用して朝日歌壇を復活させた。
  • 啄木の歌集「一握の砂」の序文を書いた。
  • 生前からの強い希望で、幼少期を過ごした山内町宮野の黒髪山の見える丘に眠っている。
  • 筒江の馬場家に玄耳自筆の書画がある

  秋の日は女(め)いはのかげにうすれつつたそがれ寒き黒髪のやま
  風たえし一夜はあけて朝戸出(あさとで)の黒髪山に雪ぞ積(つも)れる
                      黒髪山乳待坊会






道脇に立つ1枚目の案内板。







二枚目の案内板から右に折れる。少し登ったところに小さく三枚目の案内板が見える。







三枚目の案内板。


佐賀新聞(2014年05月28日)の記事によれば、「地元のボランティア団体「黒髪山乳待坊会」の会員8人が、歴史探訪者のために説明板1枚と墓地までの案内板4枚を設置した」とのこと。







一枚目と三枚目の位置関係はこのようになっている。
中央手前が一枚目の案内板。左すみに三枚目の案内板が写っている。
そこから、写真中央の緑の坂道を登っていく。登りきったところが渋川家の墓所


(つづく)

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