〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

啄木の交友録(54-56)「街もりおか」


[2014年1月号表紙]


月刊誌「街もりおか」
啄木の交友録【盛岡篇】執筆 森 義真 氏
  2013年11月号(No.551)〜2014年1月号(No.553)
 
54. 葛原 対月(2013年11月)
  わが父は六十にして家を出で
  師僧の許に聴聞ぞする   (歌稿ノート「暇ナ時」)
啄木の父一禎が訪ねていった師僧とは、野辺寺の常光寺にいた葛原対月であった。対月は、文政9年、現在の盛岡市仙北町に生まれた。武術を身に付け、和漢の書を修め、和歌と茶道にも通じていた。妻が馬に蹴られて亡くなったことに世の無常を感じ、出家。諸国を回った後、41歳で岩手郡平館村の大泉院の住職となった。大泉院には、5歳の時から寺の小僧として働いていた17歳の石川一禎(啄木の父)がいた。一禎は対月を尊敬し師と仰ぎ、和歌の手ほどきを受けて、生涯を通じて和歌に親しんだ。対月は、70歳となった明治28年に、野辺地の日照山常光寺の住職として赴任した。

  
55. 古木 巌(2013年12月)
  かの旅の汽車の車掌が
  ゆくりなくも
  我が中学の友なりしかな  (『一握の砂』)
この歌のモデルは古木巌とされている。
古木は明治15年、南岩手郡本宮村(現・盛岡市)に生まれた。啄木より4つ上だが、留年したため盛岡中学校で啄木と同じクラスとなった。盛岡高小で同級だった金田一京助は、「快活でらい落で、小柄のくせに意気が大きく、唾をとばして呶々激論する時は、少しおかしみを帯びながら、全く好感のもてる好男子でした」と古木の人柄を表現している。明治37年に日本鉄道株式会社に入り、東北線尻内駅(現・八戸駅)の改札掛から車掌になった。

 
56. 山村 弥久馬(2014年1月)

明治34年2月、盛岡中学校(現・盛岡一高)に、生徒による大きなストライキ騒動が起きた。
  ストライキ思ひ出でても
  今は早や我が血躍らず
  ひそかに淋し     (『一握の砂』)
当時、盛岡中の3年生だった啄木も参加して、授業のボイコットなどの実力行使を行い、マスコミにも報道される騒ぎとなった。教師側の犠牲者は28名中、多田綱宏校長以下24名が休職、転出または依願免職となった。明治34年3月に高等師範(現・筑波大学)研究科を卒業した山村弥久馬(文久3年、土佐の生まれ)が、多田校長の後任として赴任した。厳しい教育方針をとったため、ルーズな学校生活を送っていた啄木にとっては、極めて居心地の悪い雰囲気になったものと思われる。厳しい教育方針を貫いたと伝えられているが、一方では人情味があり生徒からの信望も得られた側面もあった。

 
   タウン誌「街もりおか」に連載中

「街もりおか」杜の都社 発行
昭和43年創刊の月刊誌。盛岡伝説案内、エッセイ、本や演劇やコンサートや映画情報など満載。1冊250円。