《作品に登場する啄木》
『しろばんば』
井上靖 著 新潮文庫、2004年
五章
(つづき)
旅館には客らしい者のすがたは見えなかった。そのくらいだから浴場はまったくふたりのものだった。犬飼は風呂につかりながら大きな声で歌をうたった。
──東海の小島の磯の白砂に、われ泣き濡れてかにとたわむる。
犬飼の歌を聞いた時、洪作ははっとした。いつか沼津の千本浜で蘭子がうたった歌と同じ歌だと思った。千本浜で洪作のからだの中に飛び込んで来たと同じものが、ふたたび洪作のからだにはいり、内部から心を強くしめつけて来た。
「この歌知っているか。」
犬飼はうたい終わるといった。
「前に聞いたことはありますが、よくは知りません。啄木の歌でしょう。」
「教えてやるから、うたえ。」
犬飼は命令口調でいった。うたえといわれても、洪作はすぐにはうたえなかったが、しかし、ともかく、その晩、洪作は啄木の歌を二首おぼえた。もう一首は “函館の青柳町こそ悲しけれ、友の恋歌矢車の花” というのであった。
(おわり)