〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

啄木の交友録(51-53)「街もりおか」

[9月号表紙]


月刊誌「街もりおか」
啄木の交友録【盛岡篇】執筆 森 義真 氏
  2013年8月号(No.548)〜10月号(No.550)
 
51. 畠山 亨(2013年8月)
「渋民日記」と名付けられた明治39年の啄木日記の一節に、次の記述がある。『畠山が一番---この村で一番学識もあり、理想もある男…』
亨は、明治6年、渋民村松内で生まれた。渋民村役場に書記として採用され、明治38年には助役に抜擢された。この際、亨は啄木からお祝いを貰ったと言われている。
明治40年5月4日、啄木一家が離散する日であり、啄木が北海道に旅立つ故郷への永訣の日、啄木は妻節子に頼んで亨の家に行かせた。「我妻は、山路二里、畠山君を訪へり。予は妻の心を思ふて思はず感謝の涙を落しぬ」。返す見込みのない借金の使いだったのだろう。

  
52. 猪川 静雄(2013年9月)
猪川は、天保5年、盛岡の厨川村木伏に生まれた。盛岡師範学校で教鞭をとり、明治18年から39年まで22年間、盛岡中学教師として、漢文、倫理、習字を教えた。
師範時代から、盛岡に出て勉学を目指す市外の少年たちの指導と教育にあたった。これがいわゆる「猪川塾」である。啄木はよく猪川塾に遊びに行ったことを、友人たちが回想している。
啄木の歌に、猪川がモデルとされている歌がある。「自が才に身をあやまちし人のこと/かたりきかせし/師もありしかな」(『一握の砂』)

 
53. 内田 秋皎(2013年10月)
「起きよ石塊、起きて母校の雑誌の為めに一文を草し送れ。噫、天意妙なる哉、母校は未だ此最下級の校友の名を忘れずに居たのか。これ実に我が秋皎内田君に射放れて、草裡夢を蔵む孤境の予に落ちた…」。 これは、啄木が盛岡中学校校友会雑誌第9号(明治40年3月)に寄稿した「林中書」という評論の一節である。
この「林中書」は、啄木の教育論で、「教育の真の目的は『人間』を作る事である」という名言や、日露戦争後の世相を批判した啄木独自の鋭い世界観、文明観をも示している。
秋皎は、明治19年東京市麹町に生まれた。東京外国語学校卒業後、明治45年から盛岡中の英語教師として教鞭を執った。
 
   タウン誌「街もりおか」に連載中

「街もりおか」杜の都社 発行
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