〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い息づかいに触れてみたい

石川啄木「ROMAZI NIKKI ローマ字日記」について

[アオキ 雄花]


*漢字と仮名では書けないことをローマ字で

石川啄木 ローマ字日記について
『ROMAZI NIKKI ローマ字日記』桑原武夫 編訳 石川啄木岩波文庫/1977

『人はなぜ日記を書くか』大島一雄 著 芳賀書店 1998
石川啄木 その散文と思想』池田 功 著 世界思想社 2008年


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『ROMAZI NIKKI ローマ字日記』桑原武夫 編訳 石川啄木岩波文庫/1977

 解説 桑原武夫

  • なぜ人々は啄木を愛読することをやめないのか、そこに純粋な青春があるからである。
  • 4月7日、新しいノートにローマ字で書き出してから、啄木の日記は急に描写が精密になり、心理分析も深くなっている。その日その日の心覚えではもはやなく、きわめて文学的な筆致となり、分量も長くなった。最も長い4月10日などは400字原稿用紙にして18枚におよび、短篇小説といってもよいものになっている。
  • 啄木が、この表記法を選んだのは、妻に読まれたくないという理由からだけでは恐らくなかった。彼はローマ字で小説『サカウシ君の手紙』を書こうとしており(4.19)、また社会革命の必要性を述べた大島経男への重要な手紙の中で、ローマ字普及の実行運動を始めたい、と書いている(手紙、44.2.6)。彼は日本の文学者中、北村透谷とともに、日本語の改造を真剣に考えていた先覚者の1人なのだ。そうでなくして、最初の喀血をした日に、『字音カナヅカヒ便覧』を写す(5.14)というような行動を、どうして理解できよう。
  • 啄木はローマ字という新しい表記法をとることによって、彼の上にのしかかるいくつかの抑圧から逃れることができた、と考えられる。
  • “ローマ字日記”は、啄木の生活の実験の報告だが、同時に、彼の文学の実験であったことはいうまでもない。それが文学者ということだが、彼は文章の力によって自己を究極まで分析しようとした。そのため、その文体は誠実と同時に緊張を要請され、そこに新しい名文が生まれた。“ローマ字日記”は未熟な面をのこしながらも啄木の全要素をふくむものであり、日本の日記文学中の最高峰の一つといえるが、実はそれではいい足りない。いままで不当に無視されてきたが、この作品は日本近代文学の最高傑作の一つに数えこまねばならない。

 

『人はなぜ日記を書くか』大島一雄 著 芳賀書店 1998

  • 一八八六年に生まれた石川啄木は、ほぼ一九〇二年から一九一二年の死ぬ年までほぼ十年、ある時は集中的に、それほどの途切れもなしに日記を書きつづけた。十六歳から二十六歳にわたる時期である。
  • 石川啄木の日記のうち、一 <日付け> で最も長い分量を誇るものは、極めて有名な、一九〇九年の春の短い時期に書かれた、いわゆるローマ字日記のある日のものである。四月十日の <日付け> のものであり、それは最初に、朝の十時過ぎに起きて書かれた短い部分で一旦中断した後、会社から帰ってからであろうか(その当時彼は朝日新聞の校正係の仕事をしていた)、その夜ずっと書き続けられたとおぼしき圧倒的な長さの日記が続く。日記の著者が睡眠の壁に突き当たったのが深夜の三時であることが、その日の最後の記述で判明する。この日の日記の長さを示す別のデータとして、これがそっくり朗読されたものの時間の長さがある。CDに収録された橋爪淳によるこの日の朗読の時間は約三十分になる。ともあれ漢字かなまじり文に直されたものでは、約十六枚(ローマ字を一字とする原文換算では、もっとずっと多くなるのは言うまでもない)にのぼるこの <日付け> の日記は、ある時期までは伏せ字でしか表記しえなかった、フィスト・ファックの記述が歴史的に名高いものだが、もちろんこの啄木の記述が歴史に耐えられるのは性文献としてではない。何よりも女性にとって残酷で悲惨な時代というものを、啄木という存在を通してそれが照射しているからだ。ところで、啄木のこの日の日記は、後で書かれたものではない。密集したローマ字日記は、この翌日も約七枚弱という、かなりの長さだからだ。いわばこの日記で、著者はリアリズムを <日付け> においても実践していると言える。

 

石川啄木 その散文と思想』池田 功 著 世界思想社 2008年

 <はじめに>

  • 1909年(明治42)4月3日から6月16日まで、啄木はローマ字により日記を書いた。いわゆる「ローマ字日記」である。なぜローマ字で書いたのかということなどに関して数多くの研究がなされているが、私はこれがきわめて意識的な日記であり、作品化を意図したものであることを、以下のような点から論証した。まず、冒頭と終わりに枠組みが設定されていること、単なる備忘録の域を超えた客観的な描写がなされていること、また地続きなままで散文から韻文を記していること、さらに前の日とのつながりがあることなどである。(P.ii)
  • 「ローマ字日記」は性的な描写が激しいことでも知られているが、実はこれも意識的な作品化への方法であったと考える。それはこの中に『花の朧夜』や『情の虎の巻』などの江戸時代艶本名が記されているからである。(P.iii)

 

 第一章 散文の世界 

 (二)ローマ字日記

一、作品化への方法意識

  • 1908年(明41)4月24日単身北海道から上京して以来の約一年間、日記の中で家族のことが記されたり、さらに踏み込んで家族についての懊悩が記されるのは、家族や、家族を預かってもらっている宮崎郁雨からの手紙や葉書が着いた日にほぼ限られるという事実があるからである。(P.65)
  • 全体への配慮として、前の日のことを今日へとつながりを持たせながら書いている態度が見受けられる。具体的には一日の日記の書きはじめに、前の日をうけ、否定し、批判し、反省しながら今日へとつながらせていたり、逆に一日の終わり方にも配慮がなされ、きちんと終わりがなされていることを示した。(P.85)

 

二、「ローマ字日記」と江戸時代艶本

  • 啄木が読んだ江戸時代の三点の艶本の存在が、「ローマ字日記」の、性の赤裸々な描写のことはもちろん、ローマ字書きの問題や、夫婦制度のことに、大きく関わっていることに気づく。(P.91)
  • 11月7〜10日にかけての『こころの竹』の艶本による性的興奮、ローマ字表記による私娼達との関係の想起、それから実際に浅草に行っての私娼達との遊び。これらが一つの連想となって、「ローマ字日記」の「ポーノグラフィック」の部分が成り立っていることがわかる。(P.96)

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 *本の紹介

石川啄木 その散文と思想』 池田 功 著 世界思想社 2008年 5,800円+税

「はじめに」より
啄木は短歌、詩にすぐれた作品が多い。しかし、啄木自身は小説家になることに全力を傾けていた。「弓町より──食ふべき詩」のなかで「小説を書きたかったが、遂に書けなかった」と、記している。
しかし、事実はそうではなく、残した小説、日記、書簡、随筆、散文、評論などは、現在も読み応えがあり重要な問題を多く含んでいるのである。

第一章 散文の世界
(一)小説
 一、音の物語「雲は天才である」論
 二、「札幌」に描かれた狂----文明への批評と救済
 三、「赤痢」「鳥影」における赤痢の情報を読む
 四、賞金稼ぎの道----啄木と懸賞小説
(二)ローマ字日記
 一、作品化への方法意識
 二、「ローマ字日記」と江戸時代艶本
(三)書簡
 一、文体・署名・人称について、及び重要書簡
 二、書簡体文学への意識

第二章 思想の世界
 一、社会進化論の影響(一)----高山樗牛を通して
 二、社会進化論の影響(二)----「相互競争」から「相互扶助」へ
 三、石川啄木と短歌「滅亡」論
 四、思想を育んだ北海道
 五、古典芸能の享受