〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

啄木の交友録(44-47)「街もりおか」


[4月号表紙]


月刊誌「街もりおか」
啄木の交友録【盛岡篇】執筆 森 義真 氏
  2013年1月号(No.541)〜4月号(No.544)
 
44. 高野 桃村(2013年1月)
桃村(本名・俊治)は、明治15年に江刺郡愛宕村に生まれた。明治34年岩手県師範学校(現・岩手大学教育学部)に入学した。啄木より5歳年上だが、啄木が主宰した「文庫」誌友会で初めて会った時には、桃村が師範2年生で啄木は盛岡中学4年生だった。啄木が文芸雑誌「小天地」を発行したときには寄付金壱円を出し、「おもひの籠」12首を寄稿し、掲載された。桃村は啄木について、「不思議に人をひきつける人だった」「金の無心にも、自分の小遣いがなくても送金しなければならないという責任感を感じさせる」と回想している。
 
45. 川村 哲郎(2013年2月)
川村は、明治18年紫波郡徳田村に生まれた。明治31年盛岡中に入り啄木と同級生となった。盛中卒業後、代用教員となったが退職し、サンフランシスコにいた従兄の竹内鉄五郎を頼って渡米した。川村のその後は不明な部分が多いが、ニューヨークで「やまとホテル」という下宿屋を営んだとのこと。後日発見された宿帳には、昭和14年2月2日から3月5日まで、このホテルに滞在した盛岡出身の俳人山口青邨の感想が記されていた。「ここの主人はみちのくの産。……啄木の話をしたり、二十年も三十年も前の話をした。……」。
 
46. 長岡 拡(2013年3月)
拡は、明治11年福岡県柳川に生まれた。20歳で北海道に渡り、私立根室実修学校の英語の教師をしていたときに、妻となる栄と出会った。明治33年夏に盛岡に帰り結婚した。拡22歳、栄23歳であった(生まれた子どもが女優・長岡輝子)。拡は、明治35年から明治39年頃まで私立盛岡商業学校で勤務した。この間に、啄木と交友が結ばれたのだった。長岡家には、英語教師や英語を志す学生たちが集い、拡と栄の人柄に魅せられたという回想が綴られている。
 
47. 岩動 炎天(2013年4月)
   忘れめや花の四月の啄木忌
この句は、大正10年4月13日、盛岡市北山の願教寺で開かれた石川啄木十回忌追悼会で、岩動炎天が詠んだ追悼句の一つ。現在は晩春の季語として定着している「啄木忌」を、初めて詠み込んだ句である。
炎天の本名は康治。明治16年紫波郡赤石村に生まれた。盛岡中3年生の時、啄木と同じクラスとなり隣に机を並べる仲となった。京都府医専(現・京都府立医科大学)に学び、日本各地の病院でに勤めた。亡くなる前年(昭和37)には、句集『片雲』を刊行した。
 
   タウン誌「街もりおか」に連載中

「街もりおか」杜の都社 発行
40数年続く月刊誌。盛岡伝説案内、エッセイ、本や演劇やコンサートや映画情報など満載。1冊250円。