〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

啄木の交友録(24-29)「街もりおか」

[「啄木の交友録」コピーと10月号表紙]


月刊誌「街もりおか」
啄木の交友録【盛岡篇】執筆 森 義真 氏
  2011年5月号(No.521)〜10月号(No.526)

24. 原 抱琴(2011年5月)
抱琴(本名・達)は、当時第一次西園寺内閣の内務大臣を務めていた原敬の甥にあたる。中学5年生の時に、正岡子規の門下に入る。この頃、盛岡に来て後輩を指導して杜陵吟社を結成させた。啄木も杜陵吟社の同人だったが、啄木の俳句作品は生涯で10句しか残されていない。これは啄木をめぐる謎の一つである。明治35年10月23日、「杜陵吟社」原抱琴送別記念として撮影された総勢16名の写真の中央に、啄木は抱琴の隣に写っている。

25. 田村 叶(2011年6月)
盛岡中学入学時における啄木の保証人は、母方の親戚である米内謙次郎だったが、5年生の明治35年4月に、啄木の姉サダの夫である田村叶へ変更された。啄木が同居を始めた頃の田村家には、啄木より6歳年下の長女を筆頭に5人の子どもがいた。啄木を加え一家8人の生活は、経済的に極めて苦しかったことが容易に想像される。そうした中にありながらも啄木は、盛中での自由奔放な青春時代を謳歌していたことになる。

26. 小澤 恒一(2011年7月)
啄木と恒一は、盛岡中学での同級生で、3年から4年生にかけてユニオン会(ユニオンリーダー輪読)の仲間として親しく交流した。明治38年8月に恒一が啄木に宛てた絶交状の最後の一節は、「さらば友よ、今後は永久に汝の敵也」であったという。啄木はこの時、「小生の方より貴下に対して永久に絶交せんと決心致し居るものに候」と心に誓ったと記している。後年、恒一は早大教授となった。「学生からよく啄木のことについて話させられる」「何故にこうまで啄木が青年に好かれるのであろうか」とエッセイに綴っている。

27. 福士 神川(2011年8月)
啄木の作品が初めて岩手日報(以下日報)に掲載されたのは、明治34年の短歌6首だった。この時、啄木は満15歳にすぎなかった。これを含めて日報に載った盛岡中学時代の啄木の作品は短歌が合計7回全25首。評論が5篇全11回ある。すなわち、啄木文学の出発点として日報は、極めて重要な作品発表の場だった。啄木と日報との深い繋がりを考えると、盛中生の啄木作品掲載を認めた当時の日報主筆であった福士神川の存在の大きさに思い至る。

28. 板垣 玉代(2011年9月)
玉代は、盛岡高等小学校から盛岡女学校を通じて、啄木の妻となった堀合節子と同級生であり親友であった。新山小路付近に住む中学生や女学生が集まり、カルタやハイキングをして遊ぶ「新山グループ」があり、啄木や節子、玉代もその一員であった。「茨島の並木の街道を/われと行きし少女/才をたのみき」『一握の砂』。歌のモデルは玉代。啄木は後に、結句を「やすく暮せり」と変えた。財産家の小林家に嫁いだ玉代の暮らしを知る機会があったものと思われる。

29. 金子 定一(2011年10月)
定一は啄木の年上だが盛岡中学では2級下の後輩。校友会雑誌の委員を務めた際に啄木と知り合った。定一は「家事情の都合」により盛中を中退し、上京して神田の日本力行会(神田基督協会の附属事業として苦学生救済活動を繰り広げる団体)の寮で苦学しながら働いていた。啄木もその3カ月後に盛中を中退して文学で身を立てようと上京したが、病などで志を果たせず、定一を頼った。後に定一は、衆議院議員にも選出された。


   タウン誌「街もりおか」に連載中