〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

『青春の門』<その2- 終> 非凡なる人のごとくにふるまへる…… 啄木


[ヌルデ]


《作品に登場する啄木》
  青春の門』第三部 放浪篇
   五木寛之 講談社 改訂新版


<その2- 終>

〈啄木と馬鈴薯〉つづき

(P.238)

  • (西沢)「(中略) 世の中には、早く本を読みすぎた人間の不幸、ってものがあるんじゃないかね。おれたち普通の人間は、そんなに何度もくりかえして一冊の本や一人の作家を読むものじゃないよな。(中略) だが、もういちど、二十何歳かの現在のきみの目で彼の歌を読んでみることをすすめるな。啄木は二十代で死んだ。といって中年男や、老人に読めないような青臭い文学者じゃないぜ。さっき言った〈一握の砂〉の序文だけど、藪野椋十という人が推薦の文章を書いている。若い詩人仲間なんかじゃない。もう四十にちかい新聞社の社会部長氏だ。その人が啄木のいくつかの歌をひいて、そうだ、こんなことはおれにもある、こういう想いもたしかにある、二十歳も年のはなれた自分さえ共感するくらいだから、誰でもうなずくところがあるだろう、自分はこれまでこんなにずばりと大胆率直に人生の感慨をよんだ歌を知らぬ、自分は新しい歌の心を勘ちがいしておった、後悔するばかりだ──と、実に実感のあるいい序文を書いているんだよ。そのおっさんが例にあげてる歌には、こんなやつがある。《非凡なる人のごとくにふるまへる 後のさびしさは 何にかたぐへむ》《よごれたる足袋穿く時の気味わるき 思ひに似たる思出もあり》まだあったな──」


(P.240)

  • (西沢)「(中略) 《邦人の顔たへがたく卑しげに 目にうつる日なり 家にこもらむ》《売ることを差し止められし 本の著者に 路にて会へる秋の朝かな》これが去年のおれがひそかに共鳴していた啄木の心だ。今年はまた別の歌に共感している。五年後、十年後はまたちがうだろう。いいかい、緒方くん、おれはきみをやっつけるつもりで長広舌をふるったんじゃない。酒に酔ってくだまいてるんでもないぜ。おれはきみたちに、函館へやってきたころの自分自身を見てるんだ。きみたちといっしょに、おれももう一度、何かをかえたいとおもってるんだよ。あの丸谷玉吉氏でさえも、それをやったんだもんな。おれだって──」


(『青春の門』おわり)