〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

東京都:文京区小石川 終焉の地、最期の買い物 神楽坂「相馬屋」

◎啄木文学散歩・もくじ https://takuboku-no-iki.hatenablog.com/entries/2017/01/02

 

東京都:小石川区久堅町

 (「啄木の息HP 2001年」からの再掲)

 

小石川区久堅町

 石川啄木の亡くなった小石川区久堅町、それと知らなければ通り過ぎてしまう道すがらに、大理石の碑と東京都教育委員会の案内板がある。

 

 

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     大理石の碑

 

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【1911年(明治44年)8月7日~1912年4月13日】

 

 8月の暑い最中、本郷喜之床からここへ引っ越し、翌年4月春満開の頃この地で亡くなった。

 

啄木“冒険を犯す”

 

石川啄木「千九百十二年日記」)

1912年(明治45年)

  1月28日 もう1円ばかりしか残らなくなった

  1月29日 朝日新聞社の人々十七氏からの醵集見舞金

       三十四円四十銭を受け取る。

       外に新年宴会酒肴料三円も受け取る。

  1月30日「夕飯が済んでから、私は非常な

       冒険を犯すやうな心で、俥にのって 

       神楽坂の相馬屋まで原稿紙を

       買ひに出かけた。……」

 

  非常な冒険を犯すような心で原稿紙を買いに出かけた啄木の後を、わたしは付けてみようと思った。

「文京の名所めぐり」(文京区・教育委員会観光協会)の地図で久堅町「終焉の地」 から、神楽坂文具店「相馬屋」への道を指で何度もなぞる。

 冬の一番寒い頃、1月30日のしかも夕飯後、いくら俥とはいえ病の重い啄木にとって相馬屋までの道は遠かったことだろう。あの毛布(?)の膝掛けを俥屋が痩せた膝に掛けたに違いない。

 

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 地図をじっと見ていると、相馬屋に向かったであろう道がおぼろに見えてくる。俥代は距離で取るのだろうか、時間で取るのだろうか。いずれにしても出来るだけ近道をしただろう。

 播磨坂から春日通に出て、新坂か金剛寺坂か安藤坂を右へ折れる。現在神田川には多数の橋が架かっているがあの頃はどうだったのか。相馬屋は神田川を渡るので新宿区になる。

 わたしは新坂から小桜橋を選んだと思った。しかし、実際に新坂を曲がってみると、狭い上に夜はものすごく暗かったのではないか。そうなると安藤坂から飯田橋か。2001年の東京の街はほこり臭い。

 啄木はその頃、体が衰弱し職場へも行けなかったので、夜風の冷たさよりも、久しぶりに触れる街の人々や、俥や、店や、灯りに快さを感じ胸ときめかせて 相馬屋へ向かっただろう。原稿紙を何束買いそのうち何枚書くことが出来たのだろうか。亡くなるまでにあと何回外へ出られたのだろうか。 

 

神楽坂 文具店「相馬屋」

石川啄木「千九百十二年日記」)

1月30日(つづき)

 本、紙、帳面、俥代すべてで恰度四円五十銭だけつかった。いつも金のない日を送ってゐる者がタマに金を得て、なるべくそれを使ふまいとする心!それからまたそれに裏切る心!私はかなしかった。

 

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  啄木が紙や帳面を買った文具店「相馬屋」

 

 啄木の日記は途切れながらも続き、2月20日で終わる。

 

2月20日

・・・毎日熱のために苦しめられ・・からだはひどく疲れてしまって、立って歩くと膝がフラフラする。さうしてる間にも金はドンドンなくなった。・・・ 

 

 相馬屋さんは今も 店を続けている。

 啄木御用達の原稿紙が店にあった。B5で縦に20字、横に10字。一マスがちょっと横長で行間は取ってない。罫線は、やさしい若緑色。まわりの余白が大きい。左下に「相馬屋製」と書かれている。

 啄木は、相馬屋へ行った日より数えて43日目で亡くなった。たぶん使いきれずに残ってしまった、空白のままの原稿紙はどうなったのだろう。

 

                      (2001-冬)