〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

 「生きがい」よりも「死にがい」が強制された青春 岩城之徳 <2>

[啄木墓碑裏面 拓本『大丈夫だ、よしよし、おれは死ぬ時は函館へ行つて死ぬ』]


『国文学 解釈と鑑賞』特集─石川啄木の世界─
   1974年(昭和49)5月号 第494号 至文堂

(2017-09-07の つづき)
◎私の卒業論文  岩城之徳
 「石川啄木の伝記的研究」

  • 昭和23年の春、私は日本大学法文学部文学科を卒業した。卒業論文は「近松浄瑠璃における道行の研究」400枚。卒論に近松の世話物を選んだのは、封建社会の矛盾を全身に受けて苦しむ町人階級の人びとや、罪なくして死に追いつめられてゆく心中物の若い男女に、かつての自己を発見し深い共感を覚えたからである。
  • 私は卒業後北海道へ渡り、昭和25年の春北海道大学の大学院に入学した。その頃の北大は、図書もなく暖房炭も少ない古びた文学部の教室であつたが、古典研究の歴史を語り、源氏物語の成立を論じる風巻景次郎教授の講義は若々しい情熱にあふれる魅力的なもので、学生たちは寒さを忘れて夢中で聞きいつた。風巻先生は大学院で石川啄木の研究をやりたいという私に、「事実の証明」に力を入れるよう指導され、戦後の歴史学近代文学の成果を採り入れて幅の広い視野から啄木の伝記を実証的にまとめてはどうかと奨められた。
  • 私が啄木を研究対象に選んだのは、当時世界評論社より刊行された『石川啄木日記』全三巻を読んで、不幸な運命とたたかいながらも多くの名作を残した啄木の文学者としてのすぐれた素質と、社会の不条理に挑戦した鮮烈な詩精神に心が打たれたからである。
  • 私は北大時代の5年間を文字通り啄木の研究に没頭し、「石川啄木の伝記的研究」1500枚を大学院修了論文として提出した。昭和30年1月のことである。この研究は『石川啄木伝』として刊行され、これが契機となつて母校の日本大学の専任講師に迎えられた。私は大学に赴任してからもたえず啄木とその周辺を調査し、十数冊の啄木に関する著書を世に送つた。
  • 啄木のその比類なき業績を明らかにすることで、自己の青春の夢を果たそうとしているのかもしれない。その意味で「私の卒業論文」は学部の「近松」より大学院の「石川啄木」のほうが私にとつてふさわしいような気がする。


(おわり)


岩城之徳(いわき ゆきのり、1923年―1995年)は、日本近代文学研究者、日本大学名誉教授。石川啄木の実証的研究の基礎を築いた。1986年、「啄木歌集全歌評釈」「石川啄木伝」で第1回岩手日報文学賞啄木賞受賞。国際啄木学会発起の中心人物となり、会長も務めた。(wikipediaより)