〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

「紅苜蓿  <11>(おわり)」-啄木の歌に登場する花や木についての資料-

紅苜蓿  <11>

-啄木の歌に登場する花や木についての資料-

 

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[函館歌壇]文学仲間との交流

❓啄木クイズ 〈 〉 内から答えを一つ選んでください。

 明治39年に函館で誕生した文学結社である苜蓿社の雑誌の名は①〈白苜蓿・青苜蓿・紅苜蓿〉である。啄木は苜蓿社の人々と生涯にわたり親交を結んだが、特に宮崎郁雨(大四郎)との縁は深く、『一握の砂』の序文には、もう一人の恩人である金田一京助と並び感謝の念を記している。郁雨の記した②〈『函館の人』・『函館の砂』・『函館の海』〉には、苜蓿社設立当時の経緯などが詳細に説明されている。

 苜蓿社は流人のペンネームを持つ③〈大島経男・野口英吉・岩崎正〉が事実上の指導者であり、雑誌の第一冊から第五冊までの主筆となっていたが、第六冊以降は啄木が編集を担当することになり、雑誌名の読みを④〈べにぼくしゆく・べにまごやし・れつどくろばあ〉と改めている。

 そして第七冊には主人公の後藤肇に自分自身の姿を投影した⑤〈『漂泊』・『二筋の血』・『紅筆だより』〉を掲載していたりして、ふるさとを追われた啄木が再び文学に情熱を傾けることになる。

 

答えと解説

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答えと解説

函館で誕生した苜蓿社の雑誌の名は<①『紅苜蓿』>であり、この雑誌の存在と同人達との交流が啄木の人生を大きく変えていくことになる。

宮崎郁雨の著<②『函館の砂』>には、「啄木の歌に拾う」「啄木雑記帳」の各項目に、親友としての一面だけでなく、その後の交友の複雑な心情が偲ばれてならない。

苜蓿社は流人のペンネームを持つ③〈大島経男〉が事実上の指導者であり、啄木が後に尊敬の念を表現した人物である。

第六冊以降は啄木が編集を担当することになり、雑誌名の読みを④〈れつどくろばあ〉と改め、第七冊には小説〈⑤『漂泊』〉を掲載している。


(大室精一・佐藤勝・平山陽  『クイズで楽しむ啄木101』  桜出版  令和元年)


 

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函館市史ページの紹介

 「苜蓿社(ぼくしゅくしゃ)と啄木の函館歌壇」

掲載写真
・『紅苜蓿』の表紙
・啄木と苜蓿社同人
・函館大火を記した啄木の「日記」

函館市史 デジタル版

「函館市史」通説編3 5編2章7節5-1-2

 

(おわり)

「紅苜蓿  <10>」-啄木の歌に登場する花や木についての資料-

紅苜蓿  <10>

-啄木の歌に登場する花や木についての資料-

 

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  • 啄木から函館に行きたいという話があったとき、苜蓿社の面々は「鶏舎に孔雀が舞い込むようなものだ」と言い合って、心から歓迎した。
  • 啄木の処女詩集『あこがれ』は、東京市長尾崎行雄に献じられ、上田敏の序詩に与謝野鉄幹の跋文を付したものであった。東京を遠く離れた北の街で、地道に働きながら詩や短歌や散文を書いていた青年たちにとって、「天才詩人」啄木の登場は、まさに「鶏舎に孔雀」と感じられたであろう。
  • 興味津々で待っていた同人たちの前に現れたのは、小柄で丸刈りの、書生のような青年であった。人なつっこい顔立ちだったが、眼差しは炯々として、いかにも詩人であった。
  • 函館の青柳町──そこにはまさしく友がいて、友情の花が咲いていた。まだまだ自分も未来を信じていいのだと、ひそかに心に呟いたことであろう。のちに「死ぬときは函館で死にたい」と啄木に言わしめたのは、友情に支えられた日々の記憶であったことは疑い得ない。
  • 後年郁雨は「実際と夢想のけぢめも弁へぬ様な、若い日々を送つてゐた」「苜蓿社の同人も啄木も皆若かつた」と回想するが、まさしく彼らは若く尊いときを共有したのであった。

(山下多恵子 『啄木と郁雨 友の恋歌 矢ぐるまの花』 未知谷 2010年)

 


 

  • 函館市文学館に展示されている明治40年発行の『紅苜蓿』第一冊を眺めてみる。確かに色は褪めてはいるが、大島流人がデザインした表紙画の「うまごやし」は明らかに「アカツメクサ」そのものである。そのデザインはあか抜けしていて、百年後の今でも十分に通用する表紙となっている。
  • ろくろっ首の如くにひょろりと伸びた葉柄にふんわりと乗っかって納まっている球状の花の集合体は、白っぽく見える。しかし、印刷時では赤みの勝ったピンク色であっただろう。復刻版ではそうなっている。その球状体のすぐ根元に三枚の倒卵形の小葉三枚が白いV字形の模様を付けて二対が対生している。これは疑いもなくアカツメクサを意匠化したものである。別名レッド・クローバーである。岩崎白鯨は「其の中に雑誌の表紙画も出来た。三色刷の紅苜蓿を画いたものであった。」と前記「苜蓿社と其周囲」の(二)を書き始めている。

(竹原三哉 『啄木の函館 ─実に美しき海区なり─』 紅書房 2012年)

 

(つづく)

 

「紅苜蓿  <9>」-啄木の歌に登場する花や木についての資料-

紅苜蓿  <9>

-啄木の歌に登場する花や木についての資料-

 

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苜蓿社(ぼくしゅくしゃ)

  • 1906年(明39)10月頃に函館で誕生した文学結社。雑誌『紅苜蓿(べにまごやし)』(第一冊~第七冊)を1907年1月より発刊。第八刷は編集済みであったが、同年8月に起こった函館大火により、印刷所が焼失。これにより苜蓿社は事実上解散した。
  • 創刊号は200部印刷し、二号は400部印刷したがすぐ売り切れるという好調なスタートをきった。啄木は苜蓿社の松岡蕗堂(政之助)の求めにより、『紅苜蓿』第一刷に詩「鹿角の国を憶ふ歌」を寄稿。その縁で渡函することになった。
  • 啄木はここに集った人々と生涯にわたり親交を結んだ。啄木が1907年(明40)5月の渋民出奔以来、一番楽しい思い出としてこころに残っているのは、この函館時代であった。それはほんの四ヶ月余りであったが、啄木はほとんど連日、苜蓿社の若い友人達と人生論、文学論を闘わせ、短歌等を詠んだりし、これらの交流が啄木の人生、文学に豊かな稔りをもたらしたからであった。特に、5月11日に吉野、岩崎、松岡、啄木4人で歌会をやり、二年振りで啄木は短歌を詠んだことが重要であろう。これ以後啄木の文学は変化の兆しを見せ始める。

(『石川啄木事典』 国際啄木学会<編> おうふう 2001年)

 


 

  • 「紅苜蓿」の主宰者の大島流人は、啄木よりも9歳の年長で、「予らの最も敬服したる友なり、学深く才広く現に清和女学校の教師たり」という啄木の信頼と尊敬を集めたほどの人物であったが、教え子、石田松江との結婚の破綻から職を辞し、郷里日高の静内に去っていった。
  • 啄木が出した書簡で相手に対して先生と書いているのはごく少ない。例えば、森鴎外姉崎正治(東京帝大教授)、新渡戸仙岳(盛岡高等小学校の恩師)、佐藤真一朝日新聞編集長で啄木の上司)などであるが、これらの人達は常識的に見て当然であるとしても、文学における師であった与謝野鉄幹でさえ先生とは書いていないから、ましてや友人などに書くはずはない。その中で大島流人だけには先生と書いているのである。この事実を見ても彼が流人をいかに尊敬していたかがわかると思う。
  • 主宰の流人は去るに当たって雑誌の全権を啄木に委ねた。
  • 第6号から啄木の編集となった。まず誌名を「れっどくろばあ」と英語読みとし、巻頭に自作の詩「水無月」を据え、巻末に入社の辞を掲げ、裏表紙に主筆石川啄木と大書しアピールしている。万事に控え目な流人との性格の差が見られて興味深い。

(井上信興 『漂泊の人 実録・石川啄木の生涯 』 文芸書房 2001年)

 

(つづく)

 

「紅苜蓿  <8>」-啄木の歌に登場する花や木についての資料-

紅苜蓿  <8>

-啄木の歌に登場する花や木についての資料-

 

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  • 恋人の来るのでも待つ様に待って居た啄木を青柳町の苜蓿社に迎えたのは五月五日(明治40年)であった。丸刈の頭、端麗な細面、少しおでこの額の下にははしこそうな眼が閃いて居た。不揃えな歯並と八重歯を見せる笑顔もお国訛りの少し交じった明快な話ぶりも魅力的であった。初対面の私達は初めの間こそ少なからず圧迫を感じたが何時の間にか心と心が融合って、互に十年の旧知の様な親しさで話合って居た。
  • それらの苦難を通してなお且つ文学への憧憬と精進とを捨てなかった彼と、純情の恋に生き彼の天分を確信して明日食う米のない日にも端然として居た節子夫人とを、浪漫の夢を追う私達は善美崇高なものの象徴の様に心から歎称したのであったが、然しそれが彼及び彼の家族を不幸に陥入れて居る現実を見免して居た訳ではない。私は屢々生活の合理化を説いて彼を苦笑させた。(「都落ちした啄木」宮崎郁雨(昭和30.2.1))

(臨時増刊「文藝 石川啄木讀本」 河出書房 昭和30年3月1日)

 


 

  • こうして、北海道でもっとも伝統のある、もっともハイカラな、もっとも人口の多い、もっとも富み栄えたことのある、したがってまたもっともよく都市機能(医療、教育、水道等)の整備された都市、これが「函館の青柳町こそ」の「函館」でありますが、こういう一種のゆとりを生じた文化的な都市だからこそ、苜蓿社のようなしゃれた文芸結社を生み出したのだ、といえましょう。
  • その第六号からは啄木が主筆となった苜蓿社の機関紙『紅苜蓿』は「小雑誌なれども北海に於ける唯一の真面目なる文芸雑誌」(啄木日記)で装丁もすぐれています。メンバーの中には高い知識の持主・文学的才能の持ち主たちがおり、雰囲気も明るく開放的で啄木にとっては快適な交友の場がそこに生じたのでした。

(近藤典彦 『啄木短歌に時代を読む』 吉川弘文館 2000年)

 

(つづく)

 

「事ありげな春の夕暮」啄木 …重く淀んだ空気の不安

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カナメモチ

八面観

  • 彼の地の出来事に思いを寄せ、やがて足元の不安へと引き戻される。歌人石川啄木の詩作「心の姿の研究」の一編「事ありげな春の夕暮」の一節を引く。〈遠い国には戦(いくさ)があり…海には難破船の上の酒宴(さかもり)…〉。
  • 遠い国で起きた戦災・海難を夢想するところから始まるこの詩は、〈何か事ありげな─春の夕暮の町を圧する重く淀んだ空気の不安〉と自身の心を描写した上で、また遠方へと視線を移す。詩人高橋順子さんの解説に助けられながら、啄木の心象風景を思い描いた。
  • グローバリゼーションと聞いてもピンと来なかったが、コロナが世界にまん延して以降、遠い国の出来事が足元の暮らしにも通じていると思い知らされた。事ありげな春の夕暮れに、「世界は広くもあり、狭くもある」としみじみ思う。

(2021-04-18 長野日報

 

2021年4月18日付 – Nagano Nippo Web

「啄木・賢治もりおか散歩」約1時間で巡る 盛岡駅周辺ガイド 

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チリメンナガボソウ

盛岡ふるさとガイドが無料の盛岡駅周辺ガイド実施 啄木・賢治ゆかりの地巡る

  • 盛岡観光コンベンション協会が運営する市民観光ボランティア事業「盛岡ふるさとガイド」が現在、盛岡駅周辺の無料ガイドツアー「啄木・賢治もりおか散歩」を実施している。「盛岡ふるさとガイド」は、研修を受けた盛岡市民が案内人となり、盛岡を訪れた観光客らと共に市内の名所や旧跡などを徒歩で巡る観光ガイド。
  • 今回の「啄木・賢治もりおか散歩」は、4月1日からスタートした東北デスティネーションキャンペーン(東北DC)に合わせて企画。キャンペーン期間中の土曜・日曜・祝日に、盛岡駅周辺のガイドツアーを行っている。
  • ツアーの内容は「盛岡ふるさとガイド」が常時行っているコース「啄木・賢治であい道」に近い。同コースは約2キロを2.5時間かけて巡るが、「啄木・賢治もりおか散歩」では約1時間で主要なスポットに絞って案内し、時間があまりない人でも参加しやすい内容とした。
  • ツアーへの参加は盛岡駅2階にある特設窓口で受け付け。出発時刻は10時・11時30分・13時・14時30分で、各回の出発前まで申し込みを受け付ける。

(2021-04-15 盛岡経済新聞)

 

申込等詳細

https://morioka.keizai.biz/headline/3290/

「啄木短歌とZARD/坂井泉水のことば」 5/15 ◇「坂井泉水 心に響くことば」展 5/15~7/11

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ハボタン

池田功講演会「啄木短歌と坂井泉水のことば」

講師:池田功(明治大学教授・国際啄木学会会長)
日時:5月15日(土曜日)午後2時から4時
会場:町田市民文学館ことばらんど2階大会議室
参加費:無料
定員:50人(申込順)
申込み
【1次受付】4月15日(木曜日)
【2次受付】4月16日(金曜日)から5月13日(木曜日)

 

講師プロフィール

日本近代文学研究者 明治大学教授 国際啄木学会会長
啄木研究のほか、病と人間の文化研究、死生観の研究などテーマとしている。

(2021-04-13 東京都町田市 町田市役所)

 

申込等詳細

池田功講演会「啄木短歌と坂井泉水のことば」(5月15日)/町田市ホームページ

 


 

<ZARD30周年YEAR・町田市民文学館ことばらんど開館15周年「ZARD/坂井泉水 心に響くことば」展>

会期:2021年5月15日(土)〜7月11日(日)
※休館日:毎週月曜日、6月10日(木)、7月8日(木)
観覧時間:9:30~17:00
開催施設:町田市民文学館ことばらんど
〒194-0013 東京都町田市原町田4-16-17

 詳細

働ければ 働くほどにうれしくて… 工藤玲音さん初歌集出版

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ショウジョウバカマ

”啄木命日前に” 工藤玲音さんが初歌集 渋民出身の歌人<岩手・盛岡市

  • その啄木と同じ岩手県盛岡市渋民出身で、会社員として働きながら文芸活動を続けている歌人の工藤玲音さん。啄木の命日を前に12日、初めての歌集を出版した工藤さんに歌集に込めた思いを聞いた。

工藤「歌人の皆さん、一生に一度は夢に見るものかなと思っている。26という比較的若い年齢で、第一歌集を出させていただけて感謝している」

  • 実は、26歳という年齢は故郷の歌人石川啄木が亡くなった年。26歳で出版することは工藤さんにとって大きな勝負だった。

工藤「私は啄木に勝たなきゃいけないんですよ。啄木の年齢が、私の中で生きているうちに歌集を出すということで、勝てなくても勝負をしかけるというか」

  • 啄木が亡くなった4月13日を前に、ついに念願の歌集「水中で口笛」を出版。題名には、青春時代に抱いていたある思いを反映した。

工藤「息苦しい思いで生活をどこかしていて、その気持ちを隠すように、平気なふりをして友達とたくさん遊んだりとか、本当は水中にいて溺れそうなのに、一丁前に口笛吹いているみたいな生活だったので、そういう生活のおかしさとか切実さみたいなものが入った1冊」

≪噛めるひかり 啜れるひかり 飲めるひかり 祈りのように盛岡冷麺

  • 歌集には、高校時代から書き続けた短歌700首以上の中から316首を厳選した。その明るさはライバルとして意識する啄木への歌にも表れている。

≪働ければ 働くほどにうれしくて レモンジュースにレモン汁足す≫

工藤「『はたらけど はたらけど 猶わが生活 楽にならざり ぢつと手を見る』と啄木は結構労働でしんどいと思いながら働いてばかりだったけれど、『働けば働くほどに私は嬉しいぞ!みたいな、どうだ啄木!』っていう気持ちで詠んだ一首です」

工藤「啄木のことも素直に素晴らしい歌人だなと思うし、故郷のことも美しい光景だなと思うし、一歩進むために歌集を出して良かったと思う」

(2021-04-13 岩手めんこいテレビ

 

https://www.youtube.com/watch?v=Y7AXdSCpHDs

 

”啄木命日前に” 工藤玲音さんが初歌集 渋民出身の歌人<岩手・盛岡市>

「いのちなき砂のかなしさよ…」 誰もがこぼれ落ちることのない社会へ

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ムラサキダイコン

よみうり寸評

  • 最初の出版社に持ち込まれた歌集は随分違う姿だったらしい。石川啄木の『一握の砂』の話である。原稿料の折り合いがついた別の業者から世に出たとき、短歌は三行書きという新様式で表記され、題名も改められていた。『仕事の後』なる原題の名残がのぞく歌がある。

   こころよき疲れなるかな/息もつかず/仕事をしたる後のこの疲れ

  • 絶唱がもう一つ、思い出される。

   いのちなき砂のかなしさよ/さらさらと/握れば指のあひだより落つ

  • 誰もがこぼれ落ちることのない社会への願いが募るきょう没後109年の啄木忌である。

(2021-04-13 讀賣新聞

啄木は単なる近現代の歌人ではない

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ヒサカキ

上昇気流

日本人の原体験を詠む石川啄木の和歌

  • 東日本大震災から10年の節目の今年は、各種の関連行事が行われた。震災の記憶を風化させないで、防災・減災に生かしたい。岩手県陸前高田市高田松原跡地に防腐処理して保存される「奇跡の一本松」も、震災を伝えるものの一つだ。
  • この高田松原近くの旧「道の駅」前に2013年11月に再建された歌碑がある。岩手県が生んだ歌人石川啄木の「頬(ほ)につたふ/なみだのごはず/一握の砂を示しし人を忘れず」の歌が刻まれている。
  • アナキスト、革命家の側面も付きまとう啄木だが、宗教学者山折哲雄さんは震災後に「単なる近現代の歌人ではない」と評価が変わったという。歌人・三枝昂之さんとの対談で「啄木はすうっと万葉の世界に行ってしまう。日本人の原体験というか、自然との相関の中で作り上げられた世界観、宇宙観へ自然に入っていきます」と語っている(毎日新聞2012年1月4日付夕刊)。
  • 啄木は1912年のきょう、結核で26歳で早世した。

(2021-04-13 Viewpoint

 

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