〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

「林檎  <6>」-啄木の歌に登場する花や木についての資料- (おわり)

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 林檎<6>-啄木の歌に登場する花や木についての資料-

 

林檎

      石狩の都の外の

      君が家

      林檎の花の散りてやあらむ

 

  • やがてその年の瀬も暮れて、明けて正月六日の朝に、待ちに待った智恵子からの封書を手にする。封を切るのももどかしく、一気に読み下した啄木は、その日の日記に書き付ける。

(もう一通は)橘智恵子からであつた。否北村智恵子からであつた。送った歌集の礼状である。思ひ当るのがあると書いてあつた。今年の五月とうとうお嫁に来たと書いてあつた。自分のところで作つたバタを送ると書いてあつた。さうして彼の女はその手紙の中に函館を思ひ出してゐた。

  • 封書の差出人の署名を見た時の、啄木の気持ちが伝わって来るようである。あれだけ待ち焦がれた智恵子からの礼状だったにも拘わらず、さりげなく手紙の要点のみを書き写しているだけである。そのこと自体がショックの大きかったことを示している。「書いてあつた」「書いてあつた」「書いてあつた」と三回も続けて書いていることも切ない。啄木は全く知らなかったのである。歌集出版の年の五月に智恵子が結婚していたことを。

(略)

 

  • 後年、啄木と土岐善麿(哀果)が、雑誌『樹木と果実』刊行を計画したとき、全国からの予約者を募ったが、智恵子が第一番目にその名を連ねている。これもまた、函館市文学館に展示されている「『樹木と果実』出納控へ」の最初に見出せる。「北村智恵」の名である。これもまた、明治後期に生きた一組の男女の青春を映し出す鏡とも言いうる。

(竹原三哉 『啄木の函館 ─実に美しき海区なり─』 紅書房 2012年)

 


 

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クイズ < > 内から答えを一つ選んでください。

 啄木はふるさとを追われ明治40年の5月に函館に移住し、友人吉野白村の世話で函館区立①〈渋民・弥生・篠木〉尋常小学校に代用教員として勤務する。そこで女教師の橘智恵子と運命的な出会いをすることになる。啄木は、その時の印象を「ローマ字日記」に「智恵子さん! なんといい名前だろう! あのしとやかな、そして軽やかな、いかにも若い女らしい歩きぶり! さわやかな声!」と記している。その智恵子への淡い慕情は後に宝石のような結晶となり『一握の砂』に22首の歌群として収められることになる。その中の代表歌を2首挙げる。

 

 世の中の明るさのみを吸ふごとき/②〈黒き瞳の・か細き肩の・広き額の〉/今も目にあり

 石狩の都の外の/君が家/③〈蜜柑の花の・李の花の・林檎の花の〉散りてやあらむ

 

 智恵子に関する歌々は④〈我を愛する歌・忘れがたき人人・手套を脱ぐ時〉の章の「二」に配列されている。その智恵子は後に牧場主である⑤〈北村謹・上野広一・狐崎嘉助〉と結婚している。

 

答えと解説は↓

 

答えと解説

 ふるさとを追われた啄木は函館に移住し、吉野白村の世話で函館区立①〈弥生〉尋常小学校の代用教員となるが、そこで運命的な出会いをするのが橘智恵子である。

 智恵子への恋慕の情は22首の宝石のような恋歌となっている。その中から4首を挙げる。

 

 世の中の明るさのみを吸ふごとき/②〈黒き瞳の〉/今も目にあり

 石狩の都の外の/君が家/③〈林檎の花の〉散りてやあらむ

 死ぬまでに一度会はむと/言ひやらば/君もかすかにうなづくらむか

 わかれ来て年を重ねて/年ごとに恋しくなれる/君にしあるかな

 

 ところで、『一握の砂』の④〈忘れがたき人人〉の章は二つに分かれていて、「忘れがたき人人 一」は北海道流離の思い出を函館→札幌→小樽→釧路の順に並べている。「忘れがたき人人 二」には橘智恵子への慕情歌22首を収めている。 

 智恵子は牧場主である⑤〈北村謹〉と結婚するが、自分の歌々を含む『一握の砂』を啄木から贈られ大切に保存していた。

 選択肢中の上野広一は花婿不在の結婚式の仲人、狐崎嘉助は中学時代のカンニングの協力者である。

 

(大室精一・佐藤勝・平山陽 『クイズで楽しむ啄木101』 桜出版 令和元年)

 

(おわり)

「林檎  <5>」-啄木の歌に登場する花や木についての資料-

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 林檎<5>-啄木の歌に登場する花や木についての資料-

 

林檎

      石狩の都の外の

      君が家

      林檎の花の散りてやあらむ

 

  • 「石狩の都」(石狩平野の「都」は札幌)の郊外、「君が家」、「林檎の花」。土地と花とそこに住む女性。美しい地名と花とが相乗して、「君」とその人の住む「家」が緑の額縁に囲まれた一枚の絵画を印象づける。島崎藤村の「初恋」に謳われた、前髪にさした「花櫛の花ある君」の詩の世界を下絵に用いた感じすら与える。

(上田博 『石川啄木歌集全歌鑑賞』 おうふう 2001年)

 



智恵子はどこで気づいたか

  • 智恵子は「二」を読みすすめて、どの歌のあたりで、自分が歌われていることに気づきはじめたであろうか。

(略)

  • こうして啄木はすべてが智恵子一人にむけられた歌々であることを彼女が疑いもく受け止めてくれるよう、要所要所に必要な歌を配している。智恵子はその配慮にそってこの節の意味を一歩ごとにたしかに理解してきたことであろう。

(略)

  • りんごの花が散るのは晩春または初夏であろう。この歌を制作しているのは秋である。したがって作歌上の事実からいえば、作者はこの歌を作っている際の今、札幌でこういう情景が展開しているだろうと思っていたわけではない。今札幌で生活している智恵子への恋を「馬鈴薯の花咲く頃」の歌以下十一首の形に詠んできて、その恋人が住むところを、その人のイメージにもっともふさわしく、この十二首目でうたおうとするのである。
  • 石狩の国札幌。その広々とした郊外にあるりんご園。青空のもとりんごの樹々からは白い花びらが舞い落ち、舞い落ちる。その中に立つ「君が家」。その家こそ智恵子のイメージにそのまま通う。啄木はこうした構成意識にもとづき、ここにおくべき歌を創造したのである、とわたくしは思う。

 ────────

(注)(14)

  • 従来この歌は、まだ見ぬ智恵子の家を創造して作ったものということが暗黙のうちに前提とされてきた。しかし、わたくしは啄木が実際に智恵子のうちを訪れたことがあり、その記憶をもとにこの歌を作った公算のほうが大きいと思う。根拠は智恵子の長兄儀一の昭和四年三月八日付けのつぎの文章である。

之れ正しく、拙宅でありますが、啄木君が札幌に来た。そして間もなく去つた。その中に一度拙宅を見舞はれましたが、丁度妹不在の為、啄木君も本意なくも帰られました。但し小生は其時座敷に招じて御目にかゝりましたが直に帰られました。

(略)

  • 啄木が橘家を訪れる動機はあった。智恵子への思慕、それも離れてから間もない時の思慕である。好きな人がたとえ不在であってもその生家を。住居を見たいというのは恋愛心理の一つの形であろう。訪れる機会はあったか。あった。

(略)

  • 啄木は掲出歌を詠むにあたって、実際の訪問の記憶をもとにして、あの美しいイメージを創り出していったのだとわたくしは思う。

 ────────

(近藤典彦 「『一握の砂』の研究」 おうふう 2004年)

 


 

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  • 北村家には啄木が贈った詩集『あこがれ』と歌集『一握の砂』が所蔵されている。函館文学館の大島吉憲館長によると、『一握の砂』の表紙裏見返し扉には「橘智恵子様 著者」と記され、裏表紙見返しには啄木のハガキが宛書き面をべたっと糊付けされており、別にハガキ一通が蔵されているという。この二通は『石川啄木全集』第七巻書簡に収録されているので、文面を知ることができる。

(略)

  • もう一通のハガキは明治四二年六月二日付で実に素っ気ない内容。

退院のお知らせの御葉書についでの何日ぞやのお手紙、お喜びも申上げずに日夕を過し候ふうちに胃腸を害して恰度四週間の病院生活を致し、一昨日退院致候、東京は最早スッカリ夏、退院した晩ウッカリして寝冷えをして昨日今日風邪の気味、身心の衰弱にボーツとした頭は、しきりに過ぎし日など思浮べ候、御身は最早や全く健康を恢復せられ候や

  • 智恵子が退院後、待ちわびていた手紙である。だが、この内容で、しかも東京帝国大学十五周年記念の写真葉書ときては、智恵子は啄木の入院を気遣いつつも拍子抜けしたことであろう。
  • これで終わった。

(略)

  • 智恵子にも淡い恋心に似た感情の動きがあった。病床にあって、母親にまでねんごろな手紙をもらった。退院後のつれづれのなかで恋心ふうなときめきもあった。それを智恵子がほんの少し見せたとたんに、啄木のほうは退いてしまった。

(略)

  • 自分のほうが退いたのに、歌では自分の一方的な片恋にしてしまったのである。少し格好よく見せているが、男の身勝手さが感じられる。「忘れがたき人人二」はいうまでもなく文学的虚構の世界なのである。

 

(門屋光昭 『啄木への目線 ─鴎外・道造・修司・周平─』 洋々社 2007年)

 

(つづく)

「林檎  <4>」-啄木の歌に登場する花や木についての資料-

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 林檎<4>-啄木の歌に登場する花や木についての資料-

 

林檎

      石狩の都の外の

      君が家

      林檎の花の散りてやあらむ

 

札幌市東区・橘家庭園の「林檎の碑」
<碑陰>

  • 札幌村元村の林檎は橘仁が此地に定住し苗木を植付せる時より始まる
  • 仁は明治十七年春 苗木妻戸籍を携へ此地に住付き栽培す 適地で順調に生育せる樹は明治二十三年より結実初めて販売す 橘林檎園の誕生なり
  • 昭和五年六月十四日仁没と共に林檎園は消滅す 仁が此地に基を定めて百年以上経ち其の孫三十余名は国内はもとより米国伯国に在る今祖父を偲びて此の碑を建立す

昭和六十一年(一九八六年)九月 橘忍誌

 

(浅沼秀政 『啄木文学碑紀行』 白ゆり 1996年)

 


 

  • 啄木が函館の小学校で代用教員をした頃に、一緒に勤めていた橘智恵子を詠んだ一首です。
  • 智恵子の実家は札幌郊外にあり、林檎園を営んでいました。啄木は函館の小学校を辞めて、札幌の新聞社へ赴任する前日、智恵子を訪ねました。そして二時間ほど語り合い、智恵子に惹かれていく自分を感じていました。智恵子の実家の話を聞いたのもその時かもしれません。

石川啄木記念館 『啄木歌ごよみ』 財団法人石川啄木記念館 平成12年)

 


 

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  • 東京時代の啄木はその理想とする精神的な恋愛の対象として、常に智恵子の面影を思い浮かべ、彼女に対する切ない思慕を歌うことによって、一つの甘美な自由世界をつくりあげ、そこに逃れることによって、都会での苦しい現実を忘れようとしたのである。
  • 弥生小学校時代彼女と一緒に教鞭をとった疋田梅井は、そのころの思い出を北海道歌志内小学校教諭林義実氏に次のように語っている。
  •  橘さんは私達の間では、知恵さんの愛称で呼ばれていました。とても気持のやさしい方で、子供たちをよく可愛がり、よい授業をなさつていたようです。
  • 啄木はたしか田沢幸吉先生がやめられた代りにはいつてこられたようで、何時も黒紋付に袴という格好で学校にきておられましたが、二年の女子クラスの担任であつたので、女の先生方とは話す機会が多かつたようです。私どもでは一番高橋すえ先生が啄木に感心をもつていたようで、いろいろと噂さしていました。橘さんと啄木とは交際はなく、函館を去られるとき、一度だけ訪ねてこられて二時間ばかり話し込み、御自分の本を橘さんにデジケート(献呈)されていたのを覚えているていどです。

(岩城之徳 『人物叢書 石川啄木』 吉川弘文館 2000年)

 

(つづく)

 

「林檎  <3>」-啄木の歌に登場する花や木についての資料-

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 林檎<3>-啄木の歌に登場する花や木についての資料-

 

林檎

      石狩の都の外の

      君が家

      林檎の花の散りてやあらむ

 

  • 弥生小学校に在職当時さきに述べたように現実のその女性をまのあたりにして寄せた恋情にはもちろん深切なものがあったに違いないが、すでに妻子のある啄木にとっては所詮かなわぬ恋であったから、いわばプラトニックな思慕にすぎないものであり、片恋であったのではなかったかと思われる。それを三年の歳月を経て、東京で不如意で苦悩の多い生活の中で思いかえすと、そのおもかげが何倍かに拡大されて、その眼前にせまって来る思いがしたのに違いない。そのイメージはさらにイメージを生んでいってこうした浪漫的な歌をなさしめることになったのである。
  • 啄木がこうした歌をなしていたころ彼女は北海道大学を出た若い牧場主のところへ嫁していたのであった。『悲しき玩具』の中に、

   石狩の空知郡の
   牧場のお嫁さんより送り来し
   バタかな

  という一首が収められている。

(木俣修 『近代短歌の鑑賞と批評』 明治書院 昭和60年)

 


 

  • 小樽に転じた啄木は、「橘」の姓を名乗ったことがある。啄木は同地で小樽日報の創業に参加するが、その創刊号に自らの短歌七首を、「橘りう子(札幌)」なる匿名で掲載する。恋する乙女の姓、さらにカッコ書きでその女性の郷里名まで使っている。その中の一首に、「我が心音もなく泣かゆ何しかもただ言多き君とわかれ」がある。橘姓を名乗り、「……君とわかれ」と結ぶことで函館で別れた智恵子の面影をなお追い求めた啄木。と書いたら好事的めいてくるが、彼の君に対する愛慕の情は、函館から札幌、札幌から小樽、小樽から釧路を経て、北海の漂泊を終え東都の空の下に住むようになって、いっそう深さを増していく。
  • 大正十一年十月一日、智恵子は他界する。産褥熱のためだったが北村から石見沢町までタンカで運ばれ、同地石見沢病院で満三十三歳を一期に死の床についている。
  • 少年の日、北村牧場近くで釣をし智恵子夫人のお世話になったという牧水門下で「創作」同人の小西米作氏は智恵子の死の帰宅について、「当時はまだ北村通いのバスもなく、晩秋のぬかる路を、智恵子夫人の遺骸が担架で還って来たのを私も迎えたが、すでに遠い日の思い出となってしまった」(昭和三十四年『岩見沢文化』二号)と書いている。

(好川之範 『啄木の札幌放浪』 クマゲラBOOKS 昭和61年)

 


 

 

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  • 智恵子は明治二十二年生まれですから、啄木の三歳下です。一説によれば、啄木が智恵子をうたう歌を二十二首詠んだのは、智恵子の生まれた明治二十二年に因んだともいわれています。啄木にありそうな趣向です。実は歌人斎藤茂吉も、五十九歳で亡くなった母の死を悼む挽歌を、五十九歳に因んで、五十九首詠んでいるのです。
  • 一読して、この歌には「石狩の都の外の」とか「林檎の花の」というように、助詞の「の」が多く使われていることに気づくと思います。大きな場所から、だんだんに焦点を絞っていく手法で、この歌ですと、広い石狩の都という札幌、そしてそれをせばめて、その郊外の君の家──と、焦点を絞っていきます。
  • しかし、この歌の特徴は下の句の「林檎の花の散りてやあらむ」と、林檎を効果的に使っているところでしょう。初夏の5月に咲く白い林檎の花が、畑一面に散っているだろうという表現から、さっぱりとした清潔感を先ず感じます。そして、それ以上に、林檎そのものが、智恵子の上品な美しさを、私たちにイメージさせてくれます。おそらく、啄木はこの歌に、智恵子への清純な思いを託したかったのではないでしょうか。

(遊座昭吾『啄木秀歌』 八重岳書房 1991年)

 

(つづく)


 

「林檎  <2>」-啄木の歌に登場する花や木についての資料-

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林檎<2>

-啄木の歌に登場する花や木についての資料-

 

林檎

      石狩の都の外の

      君が家

      林檎の花の散りてやあらむ

 

  • 札幌の大きな林檎園の娘で弥生小学校の同僚教員であった橘智恵子に捧げた「忘れがたき人々 二」から。小奴の場合とちがって、こちらのほうは官能よりは心情を主とした青春の抒情歌である。もう一首、

    世の中の明るさのみを吸ふごとき/黒き瞳の/今も目にあり
  • 啄木はこの女性に対しては思慕を寄せるだけに終ったので、「二」の歌にはその清らさと、また弱さがある。
  • 北海道流離の歌の中のとりわけ忘れがたい二人、小奴とこの橘智恵子が、職業も育ちも、また啄木の心のありようも対蹠的であるのは、興ふかい。

上田三四二 「啄木名歌『一握の砂』鑑賞」 「石川啄木の手帖 - 國文学」昭和53年6月臨時増刊号)

 


 

  • 私は、昭和三年の夏、北村牧場を訪れて、智恵子さんの娘さんと語りあったり、札幌の橘家をたずねて、智恵子さんのお母さんからも、色々とお話を聞くことができた。
  • 更に翌昭和四年の夏、北海道野付牛の郵便局にいた、大野いち路君を訪れたところ、もう一冊しか、手許に残っていないという謄写版刷の小冊子「紅莉○(注)(グリーン)」(昭和四年五月一日紅莉○社)第二十一号特輯啄木追悼号をいただいたので、もう少し、補足したいとおもう。
  • この啄木特輯号にある、智恵子さんのお兄さん、橘儀一の「啄木と橘智恵子」という資料を紹介しよう。

石狩の都の外の/君が家/林檎の花の散りてやあらむ

  • これ正しく、拙宅でありますが、啄木君が札幌に来た。そして間もなく去つた。その中に一度拙宅を見舞はれましたが、丁度妹不在の為、啄木君も本意なくも帰られました。但し、小生は其時座敷に招じて御目にかかりましたが、直に帰られました。
  • その時の啄木君は、失礼ながら、私には、何等の感興もなかつた人でした。否、全く知らぬ人でした。
  • 妹が帰宅した時に、「今日、石川と云ふ人が来ましたよ」と、告げたるに、「そう! そうですか、あの方は函館で一緒に仕事をして居た方で、新らしい歌よみなんですよ。」そこで私は、始めて、啄木君を知つたのでした。
  • 新らしい歌と啄木については其後、私は支那から、病の為に帰り、鎌倉に静養三年のうち、東海の小島の磯云々、「一握の砂」(我を愛する歌)……アア曾つては妹を尋ねて来た─小生三年静養中に得たる色々の出来事の中、正に啄木君を知り、啄木君に興味をもつたのは、そして「忘れがたき人々」(二)の中、二十幾首を読みし時、更に詩歌への精進となつたなどは、特筆すべき自分の記載でありませう。総て啄木君への感謝であり、妹への追憶であります。

  (注 [○はもんがまえの中に西と土を縦に入れた文字])

 

(川並秀雄 『啄木秘話』 冬樹社 昭和54年)

 


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  • 啄木の上京後、函館に残った妻の節子は老母と娘を抱え生活に困窮した。夫は「何事も汝にえ言はず妻よただ炊ぎてあれな三合の米」(明星=明治41年7月号所収)と歌うのみで、送金もせず、救済の処置もとらなかった。
  • やむをえず妻は函館区立宝尋常高等小学校の代用教員となり、自らの力で苦境を打開した。
  • 上京後の啄木の脳裡に、美しい智恵子の女教師像とともに、けなげな妻の女教師像が彷彿としたことは確実である。

(岩城之徳・後藤伸行  『切り絵 石川啄木の世界』 ぎょうせい 昭和60年)

 

(つづく)

 

「林檎  <1>」-啄木の歌に登場する花や木についての資料-

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林檎<1>

-啄木の歌に登場する花や木についての資料-

 

林檎

      石狩の都の外の

      君が家

      林檎の花の散りてやあらむ

 

初出「文章世界」明治43年11月号 

 札幌郊外のあなたの家では林檎の白い花が散っているであろうか。

 橘智恵子の実家は北海道札幌村にあった。父は越中富山の庄屋の次男だった。明治16年北海道に渡り林檎園を営んでいた。母は尾州刈谷藩家老の三女で東京府師範学校の出身、渡道後も札幌師範学校付属小学校等に教鞭をとった。父は果樹園芸に生涯をかけ、明治38年北海道果樹協会主催の大規模な果実品評会で、彼が出品した林檎「柳玉」が最高賞をとった。

(岩城之徳・編「石川啄木必携」 學燈社 1981年)

  



林檎

 バラ科の落葉高木樹。アジア西部原産。日本には在来の和リンゴがあったが、現在食用に栽培されているものは、ほとんどセイヨウリンゴである。

 葉は楕円形で白毛が多い。花期は晩春、白色で五弁の花を開く。果実は円形、夏・秋に熟し、味は甘酸っぱい。

 世界中では1万以上の品種がある。日本で登録されている品種は170種ほど。ふじ、むつ、紅玉、祝、王林、つがる、ゴールデンデリシャス、など。

 2010年代になると品種改良により「虹の夢」「ローズパール」「レッドセンセーション」「栄紅」などが生み出された。

 

青森県  県花 

花ことば 誘惑・選択・選ばれた恋・名誉・評判

  


 

  • 函館区立弥生尋常小学校は、職員15名で女教師は7名を数えた。橘智恵子さんはその一人で、啄木が日記に「すつきりと立てる鹿の子百合なるべし」と評しているように清楚な感じのする19歳の美しい乙女であつた。純真なあどけなさと、舊家の令嬢らしい気品とを持つた智恵子さんに、当時22歳の若い啄木は尊敬と思慕の情を捧げたものであろう。

(岩城之徳 『啄木歌集研究ノート』 第二書房 昭和27年)

 


 

  • 橘智恵子さんは、札幌郊外のある大きな林檎園の愛娘であった。
  • 林檎の花言葉の総称は「誘惑」なそうである。たぶんアダム・イブの伝説に由来するかと思うが、この場合、偶然ながら啄木の彼女に対するひそやかな「誘惑」の心理がはたらいていたとしても、決して作者自身にとって非難とはならないであろう。

(吉田孤羊 『歌人啄木」洋々社 昭和48年)

 


 

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 心ならぬ御無沙汰のうちにこの年も暮れむといたし候、雪なくてさびしき都の冬は夢北に飛ぶ夜頃多く候、数日前の歌集一部(『一握の砂』のこと、筆者注)お送りいたせし筈に候ひしが、御落手下され候や、否や、そのうち或るところに収めし二十幾首、君もそれとは心付給ひつらむ、塵埃の中にさすらふ者のはかなき心なぐさみを、あはれとおぼし下され度し、おん身にはその後いかがお過ごし遊ばされ候ひしぞ
 あと七日にて大晦日といふ日の夜
           石川啄木

(明治四十三年十二月二十四日、東京本郷弓町から札幌の智恵子にあてた書簡)

 

  • 智恵子の清楚な美しい面影を慕う切ない啄木の心境は、何ともいわれぬ哀感がある。
  • 今の札幌は、啄木がこの地に住んでいたことさえ忘れかけた動く大都会、発展する大都会に変っている。啄木も、北の都がこれほどまでに躍進し変貌しようとは夢にも思わなかったであろう。

(桜井健治 連載(2)「啄木のあしあと」札幌・小樽篇 「啄木研究 第三号」 洋々社 昭和53年)

 

(つづく)


盛岡と東京を互いに感じよう! マップ「啄木鳥」

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ムクゲ

首都圏の盛岡関連スポットをまとめたマップ公開 盛岡と東京を互いに感じて

  • 首都圏で暮らす盛岡の関係者によるコミュニティー「リトルもりおか」が、東京を中心とした首都圏にある盛岡関連スポットを紹介するマップ「Kitsutsuki(キツツキ)」を公開した。
  • 「Kitsutsuki」は、地図・検索サービス「グーグルマップ」内の機能、「マイマップ」を活用したオリジナルのオンラインマップ。マップの名前「Kitsutsuki」は、キツツキを漢字で書くと「啄木鳥」となり、盛岡と東京にゆかりのある歌人石川啄木の雅号の由来といわれていることから付けたという。啄木が、故郷のなまりを懐かしみ、駅にそれを聞きに行ったことを詠んだ短歌「ふるさとの 訛(なまり)なつかし 停車場の 人ごみの中に そを 聞きにゆく」にもちなんだ。
  • 「Kitsutsuki」は、飲食店や小売店、盛岡ゆかりの人物・歴史に関わるスポット、イベントなどを登録。アンテナショップ「いわて銀河プラザ」や、「盛岡三大麺」が味わえる店、盛岡出身の新渡戸稲造が初代学長を務めた「東京女子大学」など幅広いジャンルの場所がそろう。

(2020-11-06 盛岡経済新聞)

 

https://morioka.keizai.biz/headline/3184/

「空色の罎より 山羊の乳をつぐ…」啄木

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紅葉

石川啄木の歌に登場する動物たち

『うたの動物記』

 小池 光 著  朝日文庫
 発行 2020年10月


虫偏に我と書いて「蛾」。ならば虫になった我が蛾だ。

 

  マチ擦れば
  二尺ばかりの明るさの
  中をよぎれる白き蛾のあり

『一握の砂』の一首。マチはマッチ。夜道を帰る途中、ふと煙草の火をつけるとわずかな明かりの中をちっちゃな白蛾がよぎった。自意識のかたまりだった啄木。白い蛾は彼の悲しい分身とも映る。まもなく長男が生まれ、生後一カ月足らずで死んでしまう頃。

 

山羊

ユーラシア大陸の五畜のひとつだが、どうしてか日本にはいなかった。江戸時代の頃から南の島や長崎あたりに、ちらりほらりあらわれる。全国的に飼育されだしたのは明治になってから。

 

  空色の罎より
  山羊の乳をつぐ
  手のふるひなどいとしかりけり

明治末期の銀座の酒場。なぜか山羊乳などもメニューにあったもようなのだ。空色のガラス罎から、真っ白いヤギの乳をグラスにそそぐ。初々しく女の子の手がふるえている。そのハイカラ趣味に、「都会」のときめきがする。


閑古鳥

閑古鳥とは、カッコーの異称である。お客が閑散としてカッコー、カッコーと声だけ聞こえるようだ、というのが「閑古鳥が鳴く」の実態だ。
でも、これは少しヘンではあるまいか。カッコーってそんな寂しい声かしら。明るくてむしろすがすがしい。今ごろの森で、カッコーの声を聞けばこころ洗われる。陰々滅々たる声で鳴く鳥なら、ほかにいくらもいよう、フクロウとか。

 

  ふるさとを出でて五年、
   病をえて、
  かの閑古鳥を夢にきけるかな。

 

  ふるさとの寺の畔の
   ひばの木の
  いただきに来て啼きし閑古鳥!

 

石川啄木没後の歌集『悲しき玩具』より二首。「カッコー」とすればどちらも定型に収まるが、やはり「閑古鳥」でないとこの郷愁は陰影を薄めよう。閑古鳥となってしまったわが身を悲しむ。

 

(ほかに、キリン・鹿・蟹などにも登場)

 

『うたの動物記』

  小池 光 著
 朝日文庫 814円(税込)
 発行 2020年10月30日

 

岩手日報文化賞贈呈式 受賞 望月善次さん(啄木学会元会長)

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バラ

郷土に輝く誉れ 岩手日報文化賞・体育賞、5人3団体

  • 第73回岩手日報文化賞・体育賞の贈呈式は3日、盛岡市愛宕下の盛岡グランドホテルで行われ、文化賞1人2団体、体育賞3人1団体と、文化賞、体育賞の枠を超えて県民に感動を与えた個人・団体に贈る文化賞特別賞1人の功績をたたえた。社会、学術文化、産業経済、体育など各分野の受賞者は誇りと周囲への感謝を胸に、一層の飛躍と地域貢献を誓った。
  • 岩手大名誉教授の望月善次(よしつぐ)さん=盛岡市=は石川啄木宮沢賢治の作品理解と普及に努めた。国際啄木学会会長、岩手大学宮沢賢治センターの初代代表などを歴任し、顕彰活動に尽力している。国語教育専門家として県NIE協議会会長も務めた。
  • 岩手日報社の東根千万億(ちまお)社長は「皆さまの功績は本県の誇りであり希望だ。全ての岩手人の心に、この地に生きる自信とプライドをもたらすものと確信する」とあいさつ。受賞者を代表して5人が喜びを語った。

(2020-11-04 岩手日報

 

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「啄木と花」 大根の花白きゆふぐれ

真生(SHINSEI)2020年 no.313

石川啄木と花」 近藤典彦


  第十六回 大根の花

  宗次郎に
  おかねが泣きて口説き居り
  大根の花白きゆふぐれ

     (宗次郎=そうじろ)(口説き居り=くどきをり)

 

 作歌は1910年(明治43)10月中旬。初出は「スバル」(明治43年11月号)。『一握の砂』(明治43年12月刊)所収。

 

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  • この歌には昔から二つの解釈があります。
  • 「口説く」には、「くどくどと言う」と「恋情を訴えて交際を迫る」の二つの意味があるからです。
  • 前者だと「宗次郎」に「おかね」が泣きながらくどくどと言っている。
  • 後者だと「宗次郎」に「おかね」が自分の恋心を聞いてもらおうと泣きながら訴えている。
  • わたくしは前者説です。

 

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(文字は小さいですが、写真をお読みください。おかねさん・宗次郎さん・二人の息子たちの様子も。[「啄木の息」管理者])

 


【解釈】宗次郎の飲んだくれに困りはてたおかねが、いい加減にしてくれと泣きながらくどくど訴えている。大根の花の群れが白く浮かぶあの秋の夕暮れよ。

  • この歌の全体を引き立たせる重要な箇所(すなわち警策)は、明らかに三行目、もっとしぼれば大根の花、です。この地味な野菜の花が秋の夕暮れに醸し出す、ロマンチックな雰囲気、一種の花やぎ。これがあるので後者の説が根強く生き続けるのでしょう。
  • すべて地味な言葉だけを用いて、芝居の一シーンを切り取ったかのような、花のあるこの歌。井上ひさしさんが「日本史上で五指に入る、日本語の使い手です」と讃えた石川啄木ならではの傑作です。


<真生流機関誌「真生(SHINSEI)」2020年 no.313 季刊>(華道の流派)