歌人丹羽洋岳の生家旅館に展示コーナー/黒石
- 洋岳に関連する書籍や詩人石川啄木と交流したことを示す書簡などを展示している。観覧無料。
(2019-09-03 陸奥新報)
(認知行動療法研修開発センター 大野裕)
(2019-09-02 日経新聞)
◎啄木文学散歩・もくじ https://takuboku-no-iki.hatenablog.com/entries/2017/01/02
父子碑と高知駅(2019年)。
歌碑はJR高知駅南口ロータリーの南東、横断歩道橋上り口の傍らにある。
碑の向こうに見える特徴的な大屋根が高知駅駅舎になる。
2008年に完成した駅舎(2010年)。
高知県産の杉で作られた梁が14本並ぶアーチ状の大屋根が壮観だ。
列車が接近するときのBGMは「アンパンマンのマーチ」が使われている。
ホームからは、杉の梁を支える鉄骨のアーチがよく見える(2019年)。
高知駅ホームから碑を見る。(2019年)
歩道橋を上ったところの真下、手前の高い木の下に黒く見えるのが啄木父子歌碑。
写真左斜めの黒い陰は駅舎の鉄骨アーチで、ホームからもこのように歌碑が見える。(2019年)
駅前(2019年)
真ん中の国道32号(はりまや通り)を進むと赤い欄干のはりまや橋が見えてくる。
(つづく)
・期日:2019年10月12日(土)、13日(日)
・会場:明治大学駿河台校舎(リバティタワー)1012番教室(1階)
JR中央線・総武線/御茶ノ水駅 徒歩約3分
東京メトロ丸ノ内線/御茶ノ水駅 徒歩約3分
☆大会テーマ:啄木をひらく、啄木研究をひらく
国際啄木学会はこれまで、啄木研究を推進し、啄木理解を深め新たにしていくとともに、国内外のより多くの人々に啄木を知ってもらう活動を進めてきました。また、そのような活動を通じて、啄木をなかだちとしたさまざまなネットワークを築いてきました。
私たちは、今年、学会創立30周年を迎えるにあたり、これまでの研究の蓄積の上に、さらに啄木研究を外部に開き、国内外の研究者との交流による研究の活性化をはかっていこうと考えています。そして、研究の新たな領域を切り拓くとともに、国際啄木学会に参加する会員が学ぶ喜びを常に感じられる活動を今後も続けていこうと思います。
今回の記念大会では、国際啄木学会の、特にこの10年の成果を振り返り、今後を展望することをめざします。会員、一般の皆さま、ぜひ多数ご参加ください。
☆日程
10月12日(土)理事会、総会、記念座談会、パネルディスカッション、懇親会
10:30 理事会(研究棟4階第3会議室)
12:10 総会(以後、1012番教室)
(休憩20分)
13:00 開会挨拶 池田功(国際啄木学会会長)
13:05 記念座談会「国際啄木学会30年の歴史と未来に向けて」
司会・池田功(第7代会長、明治大学教授)
(休憩10分)
14:30 パネルディスカッション「啄木の総合的研究と受容」
第1部 啄木研究この10年(成果と新たな研究動向)
第2部 啄木研究これから(若手アンケート結果及び会場の意見をもとに)
コーディネーター・若林敦(長岡技術科学大学教授)
17:00 閉会挨拶 河野有時(国際啄木学会副会長)
18:00 懇親会 リバティタワー23階 サロン燦 会費6千円(学生4千円)
10月13日(日)研究発表、シンポジウム、文学散歩
研究発表(20分発表、10分質疑応答)
9:00 小林芳弘(盛岡支部)「啄木伝記を見直す―相馬校長排斥事件の真相―」
9:30 応宜娉(明治大学大学院)「「満洲国」における啄木受容-『盛京時報』における散文詩「祖父」の翻訳を中心に」
(休憩10分)
10:10 シンポジウム「石川啄木における国際性について」
司会・高淑玲(台湾、景文科技大学副教授)
12:10 閉会挨拶 若林敦(国際啄木学会事務局長)
13:30 - 16:30 文学散歩(石川啄木終焉の地碑を中心に)
〈展示企画〉外国で出版された啄木関係書籍
・ 大会プログラム http://takuboku.jp/seminar/2019program/page001.htm
◎啄木文学散歩・もくじ https://takuboku-no-iki.hatenablog.com/entries/2017/01/02
建立の翌年 父子の歌碑(2010年)
貫禄のみえる歌碑(2019年)
父と子の歌(2019年)
碑の右側にある歌碑の説明板
【啄木の歌】
よく怒る人にてありしわが父の
日ごろ怒らず
怒れと思ふ
啄木
(啄木直筆からの集字)
【父 一禎の歌】
寒むけれと衣かるへき方もなし
かゝり小舟に旅ねせし夜は
一禎
(一禎直筆)
「石川啄木父子歌碑」の碑陰(2019年)
啄木の父石川一禎は嘉永三(一八五〇)年岩手県に生まれた。渋民村の宝徳寺住職を失職、一家は離散。次女とらの夫山本千三郎が神戸鉄道局高知出張所長として一九二五年に赴任し、一禎も高知に移住した。穏やかな晩年を過ごし、一九二七年二月二〇日に所長官舎(北東約一〇〇m)で七六歳の生涯を閉じた。三八五〇余首の歌稿「みだれ蘆」を残し、啄木の文学にも影響を与えた。二〇〇九年九月一二日
啄木の父石川一禎終焉の地に歌碑を建てる会 建之
(つづく)
◎啄木文学散歩・もくじ https://takuboku-no-iki.hatenablog.com/entries/2017/01/02
啄木の父・石川一禎終焉の地に歌碑を建てる
歌を貼った原石(2009年)
(撮影・「建てる会」呼びかけ人の岡林一彦さん)
1992年
土佐で逝った啄木の父 国見純生
啄木の父、石川一禎が高知市北本町2-7-45にあった高知鉄道局の官舎において、数え年78歳で生涯を閉じた。これらのことは知っていたが、その終焉の地を確認してはいなかった。
先ごろ、このことに関心をもちはじめた門田豊氏とその地の調査をはじめたが、元国鉄四国支社課長の岩崎巖松氏のご協力を得て、この地は「JRアパートの西隣に建っている高い鉄塔の位置であることが分かった。去る8月31日に、門田氏とともに鉄塔の前に佇んだことが忘れがたい。
孫嗣子・勝重の妻の妹、稲垣積代は、一禎について「炬燵にはいっていつも歌を書いていた様子を思い出します」と記している。また、「官舎ではお会いしたが、外出姿は見かけなかったと当時の方々が語っていました」(岩崎巖松談)。「気の弱いやさしい人でした」(金田一京助談)。
明治45年4月、啄木の臨終に駈けつけた若山牧水は「老父もまた痩せて淋しい姿の人であった」。一禎が一枚の紙に、「母ゆきていまだ中陰(註・四十九日)も過ぎぬにその子また失せにければ」という前書きと「さきだちし母をたづねて子すずめの死出の山路を急ぐなるらむ」の歌を書いて示したと記している。
わたしは、歌人仲間とはかって、この地に「石川啄木の父、一禎終焉の地」の標柱を建てたいと考えている。(高知県歌人協会会長)
(1992.9.28 高知新聞 月曜随想 (啄木・一禎の歌碑 建立報告書))
除幕を待つ歌碑(2009年9月)
(撮影・岡林一彦さん)
2009年5月
「啄木の父 石川一禎終焉の地に歌碑を建てるための趣意書」(抜粋)
啄木の父 石川一禎は、岩手県渋民村(現・盛岡市)の宝徳寺の住職でしたが1904年、宗費滞納との理由で罷免されました。
一家離散となり、一禎は啄木の姉とら夫妻の許に身を寄せました。とらの夫の山本千三郎が鉄道官吏であり高知出張所長を命ぜられたため、高知に来て共に晩年を過ごし、高知駅近くにあった所長官舎で1927年2月20日に76歳の生涯を閉じました。一禎は和歌に親しみ四千首近い歌稿「みだれ芦」を残しています。
この啄木の父一禎の終焉の地に1992年12月高知県歌人協会が「啄木の父 一禎終焉の地」の標柱と官舎跡にプレートを設置しました。その後、高知駅周辺の再開発に伴いこの標柱とプレートは撤去されています。
この度、高知駅前の再開発・整備が終了しようとするこの時期に、この地に一禎を偲ぶよすがとして「石川一禎終焉の地」の表示と啄木・一禎の歌を刻んだ父子碑を新たに建立することを切望する次第です。先の4月23日に岡崎誠也高知市長へ陳情致しましたところ、幸い高知駅前広場に適切な用地を提供していただくことが出来ました。
以上の趣旨をご理解いただき、歌碑建立のために何卒あたたかいご協力を賜りますようお願い申し上げます。
2009年5月
「啄木の父 石川一禎終焉の地に歌碑を建てる会」
・会長 高橋正 副会長 猪野睦 西岡瑠璃子 事務局長 梶田順子
・呼びかけ人 120人・完成予定 2009年9月
・設置場所 高知駅前広場南側 緑地帯内「官舎跡地」の約百メートル西南
・資金目標 300万円
募金超過達成!
募金目標300万円は、個人・団体あわせ928人の方々のご協力で超過達成。
2009年9月12日に除幕式挙行。
高知県立文学館(2019年)
今年2019年は、建立からちょうど10周年。
それを記念するイベント「短歌大募集」が企画された。2019年7月31日応募締切、2019年9月14日に高知県立文学館で表彰式が予定されている。
(つづく)
◎啄木文学散歩・もくじ https://takuboku-no-iki.hatenablog.com/entries/2017/01/02
(「啄木の息HP 2000年」からの再掲 + 2019年初夏 )
・写真について:撮影年が記されていないものは2000年撮影
(現在(2019年)から遡ること約20年)
この後に行った寺田寅彦記念館の方に、「啄木の父終焉について、ご存知でしたら教えて下さい」と、お聞きしたら資料を探してくださった。
そこには、こう書かれていた。
【五台山・東部地区ガイドブック】より抜粋啄木は、1912年(明治45)に亡くなったが、一禎はその前から次女トラの夫で鉄道官吏山本千三郎のもとに身を寄せており、その転勤にしたがって各地をまわった。
山本は、1924年(大正13)11月、高知駅開業にあたって、高知出張所長として赴任したので、一禎も山本夫妻、養子の勝重とともに高知に来て、所長官舎に住んだ。高知ではあまり外出することもなく、平穏な生活を送ったようであるが、3年後の1927年(昭和2)2月20日、この官舎で78歳の生涯を閉じた。
かつての所長官舎の場所は、現在高い鉄塔の建っているところの南側と碑に書かれているが、元国鉄職員によれば鉄塔の東側ともいう。
一禎の遺骨は、函館立待岬の啄木一族の墓に納められている。また、十五代住職を勤めた渋民の宝徳寺にも墓がある。
一禎の没後、一禎作の3800余首の和歌を収録した “みだれ芦” と題する歌稿が見つかり、函館の遺族の元に送られたといわれる。おそらく高知で詠まれた歌もあろうが、門外不出となっていて、確認できないという。
【五台山・東部地区ガイドブック】
発行者 高知市観光課
編著 土佐観光ガイドボランティア協会
発行 1995年2月25日
高知から帰ってからボランティア協会にお礼状を差し上げたら、丁寧なお便りと資料を送ってくださった。
お便りには「啄木の父のことは高知の観光バスガイドも話をしておらず、ボランティアガイドの特ダネとして10年ほど前から、特に岩手、宮城方面からのお客様に案内をしている。岩手の人などからは、『高知に来て啄木の話を聞こうとは思わなかった』『父の話は初めて聞いた』とか割合好評だ」と書かれてあった。
父一禎との集合写真
高知駅長官舎の庭
1925年(大正14)11月8日
『一枚の集合写真』という高知新聞の学芸欄には、所長官舎の庭に並んだ記念写真が載っている。「鼻下に白い髭を蓄え」「快適な晩年を送った」白髪の老翁、父一禎が前列右端に写っている。(右から3人目が啄木の姉、とら。後列右端がとらの夫、千三郎。その隣が千三郎の長男、勝重。)
また、『わが旅路』(岩崎巌松著)の中には、「一禎は、娘夫婦と同居した17年間は幸せそのものだったという。お通夜や葬儀に参列した当時の職員が健在で、その状況を伺ったことがある」とあった。
(この資料等をお送り下さった方は、土佐観光ガイドボランティア協会会長の岩崎義郎さんです。南国高知のガイドを無料でしていらっしゃいます)
『啄木を繞る人々』
吉田孤羊著『啄木を繞る人々』の中で、著者は山本千三郎を訪ね、一禎の思い出話を聞き「その臨終はまるで文字通り眠ったままだった」と書いている。
また北海道の啄木の娘、京子から“みだれ芦”を見せてもらったときのこともあり、「何れも一度使い古したやうな日本紙の帳面を、裏返して丁寧に綴じ込んだもので、中には歌ばかりでなく、啄木の追悼会の新聞記事などまできれいな筆跡で写されて」あったという。
自慢の一人息子が26歳の若さで亡くなり、「塵の世と思ひ捨ててもさらばとて移り住むべき所だになし」と歌った父。
母カツは、啄木の「名声が今日ほど高くなるとは夢にも知らず永眠され」たが、父は「世に広く謳わるるわが子の名を充分耳にして亡くなられた」とある。
この鉄塔の下が父一禎終焉の地。
高知駅側から撮影している。写真の左側が鉄道線路。
(つづく)
◎啄木文学散歩・もくじ https://takuboku-no-iki.hatenablog.com/entries/2017/01/02
(「啄木の息HP 2000年」からの再掲 + 2019年初夏 )
・写真について:撮影年が記されていないものは2000年撮影
現在(2019年)から遡ること約20年。
高知駅に着くとすぐの観光案内所で手に入れたパンフレットの地図に「石川啄木の父一禎 終焉の地」と書いてあった。今回の旅行の日程には全く入っていなかったけれど、どうしても行きたい。
旅行の最後の日、高知駅前の歩道橋の上に立ち地図を眺め、方角を見定めて歩き出した。
駅前からすぐの、ちょっとしたグリーン地帯の中に一本の柱が見えた。駅から、1~2分の距離と言ってよい。傍まで行ってみる。
高さ1.6メートルほどの柱の正面には「啄木の父石川一禎 終焉の地」とある。
ここに住んでいたのかなと思いながら柱の右に回ると、側面に
「この地から東北約百メートル 鉄塔の南側」と書いてあった。まるで宝探しのようだ。
南はどっちかと、太陽で確かめてから、東北あたりを見た。そこに鉄塔があった。駅から出る十本近いレールのほぼ真ん中だ。
鉄塔の傍に寄ろうとしたが、フェンスがあって行けない。辺りを見回すと跨線橋がある。その階段を上って橋の上に出ると鉄塔の根元がよく見えた。
レールの間が終焉の地とすると、一禎さんは『鉄道事故に遭われたか』、あるいは『行路病者として発見されたか──』など、さまざまな思いが胸をよぎった。
標柱のその後を知らせてくださった方からの情報
2001-04-30 盛岡市 森さん
「啄木の父石川一禎終焉の地」標柱は、2003年完成予定の高知駅前整備事業のため、半年前に撤去され、市役所に保管されているらしい。また、100M離れた所にある案内板も、鉄塔やアパートが近く解体されるということで、どうなるのか分からない状況。
2004-03-10 高知市 岡田さん
この木の碑は現在は高知市の工事現場の倉庫の中でどうするかも決まらずに眠っている。
そのとき、第二の鉄塔が目に入った。「終焉の地の柱」に戻って確かめると、東北の方角と言えなくもない。あらためて第二の場所を目指す。直接は行くことができないためバスの車庫を大回りして近づくと、フェンスの端にプレートがあった。
《啄木の父 石川一禎終焉の地 高知県歌人協会》と、記されてあった。『ああ、ここなんだ』と思わずプレートの打ち込んであるざらざらとしたコンクリートに触れた。
近くで立ち話をしていた男性に尋ねると「これは今、JRの寮で、啄木のお父さんが昔ここで生まれたそうだ(ママ)」と、話して下さった。
「高知駅」と「終焉の地の柱」と「終焉の地プレート」の、位置関係がよくわかる。
(つづく)